金曜の夜、東京行きの切符を手に、この駅の東北新幹線ホームに立つ。
ここで何度、帰りの新幹線を待っただろうか。
2011年2月、自分の何度目かのプロジェクト(PJ)が始まった。Go Liveまで1年の長い旅の始まりだった。ここは時折雪が舞う、東北特有の底冷えのする土地だった。車でクライアント先に向かう途中にある小さな湖の表面が、一面凍っていた。そんな場所で、クライアントとの共同作業がスタートした。
最初は難しかったクライアントとの折り合いを何とかつけて、PJの体制と計画を引き直し、その後自分の主戦場になる中国にも出張して現場を確認して帰国。PJがようやく円滑に回り始めた矢先・・・
この地は震度6強という、今まで体験したことのない強い揺れに何度も襲われた。
3.11、東日本大震災。
クライアントはもちろん全員に帰宅命令を出した。泊めてくれるホテルもなく新幹線も止まり、行き場をなくした僕達は避難民になった。緊急避難所の床で一泊した。奇跡的にその後すぐにクライアントからの手助けが得られ、僕は川崎の自宅に戻ることができた。PJメンバーはほどなくしてそれぞれの自宅にたどり着くことができた。しかし、PJはこの地のメンバーと東京のメンバーに分断されてしまった。
PJはマネジメントの判断で中止にはならなかった。しかしどちらのメンバーもお互いほとんど仕事が手に付かなかった。特にここのメンバーは3月で氷点下近くになる日もあるのに職場には暖房もつけられずガソリン不足で車通勤も一苦労な状態で、はっきり言って仕事が出来る状況ではなかった。自宅のライフラインさえ十分ではなかったのだから。あの頃はまだ原発事故の影響も判断が難しかった。
東京にいた僕と同僚は、一日も早く戻りたい、と申し出た。大変な状況は分かっていた。ただ、笑顔を届けることで少しでも元気になってほしい、との思いだった。結局、震災から1か月後、新幹線とローカル線が一部復旧した頃にようやく戻ることができた。
そこからは震災で受けたビハインドを取り返さなければならなかった。山のように考えるべきことがあった。でも、あの震災への対応がクライアントと僕達の全てのメンバーの共通体験となり、それがPJメンバー全体の団結力を高めたようだ。昼間の仕事はハードだが、夜はONとOFFを切り替えてプライベートな交流も深まった。
僕は中国への出張も増えた。毎月一回は必ず飛んだ。出張期間も3日から1週間、10日、と伸びていった。中国のクライアントから投げつけられる難題につぐ難題。何度もあきらめたいと思い、そのたび一方で次善策と交渉方法を考えに考えた。そして一つ一つ課題を潰し、信頼感を築いていった。
季節は移り変わり秋になり冬になり、クライアントも僕達も何度かメンバーの入れ替わりがありながらも、PJは歩を進めていった。
そして春、ついにGo Live。まずは予定通り日中両拠点でのPJ施策の同時立ち上げが実現。TV会議を繋いで日中のマネジメントが一同に参加するセレモニーが開催された。派手な横断幕、テープカット、テンションの高い音楽とプレゼンテーション、そして決意表明。
しかしそんなお祝いムードの裏で、現場でのPJ施策の展開はまだまだ課題続きだった。本当に地道に、泥臭く、課題の原因を突き止め潰していく作業の繰り返し。時間がかかるがしかしこの課題は正攻法でしか解決できない。あらゆるアプローチで対応策を実施した。現場からの反論には、積み上げてきた分析結果と事実で正面突破し、納得と合意を取り付けた。そしてようやく、PJで掲げたGoalの第一歩を踏み出した。
そして僕にもPJ最後の日がやってきた。あの雪の舞う日から1年7ヶ月、565日めのその日は、日差しがまだまだ夏を感じさせる暑い日だった。残務処理とPJオーナーへの報告を済ませた後、これまで何人もの人がそうしてきたように、僕も残るクライアントのメンバーの前に立ち、離任の挨拶をした。それが少し早口だったのは、こみ上げてくるものを抑えるためだった。最後に何人ものクライアントのメンバーと、これ以上ないくらい固い握手を交わした。そこに、互いに一緒に過ごした1年7ヶ月の時間を凝縮するかのようだった。温かく迎えてくれたように、温かく見送ってくれた。
ホームに新幹線が滑りこんできた。重い荷物とともに乗り込み、座席に腰を下ろした。
もう毎週月曜の早朝に新幹線で通うこともないと思うと、ほっとすると同時に寂しくもあった。振り返れば課題の多いPJであったが、それ以上に語り尽くせない思い出の多いPJでもあった。このPJのストーリーを何かに残しておきたいと思った。僕は鞄からPCを取り出した。
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